ゲーム以外の雑記(井上明人)

最近は、ほとんどキーボードの話をしています。

原爆関係の書籍についての覚書

 雑記です。
 原爆関連の本を思うところがあって「<ヒロシマ><ナガサキ>が、どのように記録されたのか」、ということに関心をもって数十冊ほど目を通したので、忘れないうちに少し覚書を書きとめておきます。
 なお、下記は、私の専門とはまったく関係のないものであり、下記の記述に網羅性や、専門家としてのクオリティなどは期待しないでください。

 論文のなかで記述されている研究史の概観のほうをお読みになられたい場合は、ネットで読めるものとしては、たとえば中沢志保(2007)後山 剛毅(2020)などを御覧いただくのがいいかと思います。

 

(1)アメリカ側

 原爆をめぐる、アメリカ側の記録ということで、もっとも全体的によく書かれていて、まず最初に手にとるべきかと思えたのは、私が読んだ限りでは、
R.J.リフトン、G.ミッチェル(1995)『アメリカの中のヒロシマ』(上下巻)、岩波書店、がよかったです。
アメリカ側での原爆の記録・認識について、重要なトピックとしては、
(A)実際の原爆開発プロジェクトの意思決定プロセス
(B)原爆投下の意思決定プロセス
(C)戦後(1940年代後半)のアメリカによる正当化と報道のコントロール
(D)現代アメリカにおける正当化の構造
などといったあたりになるかと思いますが、本書は全てのトピックについて、ある程度コンパクトに書いている本になります。
 で、それぞれのトピックについて、深掘りしようとさまざまな本がありますが、(A)については、あまり読んでいないのですが、オッペンハイマー関係の本がいろいろとあるので、そこらへんを漁っていくと良いのかな、と思います。
 (B)(C)は話題としては、繋がっているのですが、中沢志保(2014)『ヘンリー・スティムソンと「アメリカの世紀」国書刊行会あたりに、ここらへんの研究史(アルペロヴィッツバーンスタインなど)について、手際よくまとめられています。どれを読んでもらっても書いてあるのは、コナントが指揮して、ヘンリー・スティムソンが1947年にハーパーズに発表した「論文」が戦後アメリカの原爆認識を大きく左右している、という点です。このハーパーズ論文をベースにアメリカの大半の歴史教科書も記述されており、原爆正当化の物語がいかにアメリカで強く根をはっているかがわかる話がいろいろと書いてあります。
 この点についてだけ書かれた本もあり、たとえば井上泰浩(2018)『アメリカの原爆神話と情報操作 「広島」を歪めたNYタイムズ記者とハーヴァード学長 』(朝日選書)などさまざまなものがあります。また、戦後のGHQプレスコードまわりや、8月~9月のアメリカの報道関係ついて細かく書かれた本も多くあり、一つの重要なトピックを構成している印象です。
また、現代の「原爆」理解という点だと、井上泰浩(2021)『世界は広島をどう理解しているか-原爆七五年の五五か国・地域の報道』は、アメリカにとどまらず、世界各国の原爆理解の現状を示した研究としてわかりやすく、実際のデータが提示されています。ヨーロッパだと、数十年前まではアメリカ同様に原爆正当化の物語が強かったが近年では、その状況が変化していることなどが示されています。また、アジア各国においても、それぞれの国で言説に差が生まれていることも指摘されています。

 また、英語圏における悲劇としてのヒロシマというイメージを広めた最重要の古典は、間違いなく、ジョン・ハーシー(1946)『ヒロシマ』になると思うのですが、これに影響を受けて書かれたジュルジュ・バタイユ(1947=2015)『ヒロシマの人々の物語』(景文館書店)は、いろいろとわかった上で読むと、バタイユの慧眼に驚かされます。バタイユは、スティムソンによるハーパーズ論文が出る前にこのハーシーの伝えたヒロシマの悲劇に対するコメントを書いているのですが、バタイユは明確にヒロシマをめぐる言説がセンチメンタリズムをめぐる言説と、政治的な<正義>の言説のあいだで揺さぶりをかけられながら、流通するタイプのものだということをはっきりと意識しており、極めて移ろいやすい状況の只中にありながら、はっきりとその論点を示し、闘おうとしているのは素朴に言って偉いことだと感じます。

(2)日本側

 一方、日本国内の言説については、これはアメリカの言説と比べると遥かに多様な言説があるわけです。英語で書かれた原爆関係の言説も多いですが、日本語で書かれたものは、本当にたくさんあって、全体像が見えないぐらい数が多いですが、

 1968年に書かれた広島内部の多様性を書いたものとしては、やはり、R.Jリフトン(1968=2009)『ヒロシマを生き抜く―精神史的考察』(上下巻) (岩波現代文庫)は、非常に多面的な情景が書かれた一冊になるかと思います。
 また、国内の報道関係の詳細な記録としては、これは、ちょっとマニアックな情報が多い気もしますが、NHK出版編(2003)『ヒロシマはどう記録されたのか』(NHK出版)は、8月~9月にかけての日本国内の報道関係者の動きがかなり詳細が書かれていて資料としては興味深かったです。
 日本国内のさまざまな言説のせめぎあいについて、近年の研究者の手によるものとしては、福間良明 2015『「戦跡」の戦後史――せめぎあう遺構とモニュメント』 (岩波現代全書)などは、戦争に関わる悲劇の言説を、適切に多角的に眺めるものとして興味深い本でした。
 また、戦中派・少国民世代の人々によって書かれた個人史はたくさんありますが、特に印象に残ったものとしては、安田武(1963=2021)『戦争体験ちくま学芸文庫は、考えさせられるところの多い一冊で、農民兵に対する、さまざまな恨みつらみなりが率直に書かれていたり、語りがなぜやっかいになるのかということについて、自己言及的な考察がなされている興味深い論点が多数見られます。原爆に関する話はそこまで多くないですが、福間先生の話で触れられていた1960年代の平和運動の迷走に対する忌避感がダイレクトに語られているあたりも読んでいて、まあ、2020年代でもありそうな政治的混乱を思わせます。

 

(3)その他:空爆加害者としての日本/加害者としてのヒロシマナガサキ

 また、空爆加害者としての日本/加害者としてのヒロシマナガサキという話はそこまで毎回出てくる話題ではないですが、重要な論点としてしばしば提示されるものの一つです。

 この話題になると、詩人 栗原貞子(1972)「ヒロシマというとき」がまず触れられますが、セットで触れられやすい話題としては、第一に、空爆の歴史という点で関東軍による重慶爆撃との連続性が、東京大空襲や原爆投下などの市民への空爆を許したものとしてしばしばフォーカスがあたります。第二に広島出身の兵士が数多くいたマレー半島での華僑虐殺事件は広島出身者が直接に加害者であったという点から、これらの事件が加害者としての側面が特に強調されるやすいかと思います。

 それぞれのトピックについて、複数の書籍が出ており、特に、重慶爆撃に関する本は、マレー虐殺事件に関わるものよりも入手が容易で、複数冊を読むことができました。わかりやすく、一般読者向けという本が多くないのが残念ですが、戦争と空爆問題研究会(2009)『重慶爆撃とは何だったのか―もうひとつの日中戦争』高文研あたりは、比較的コンパクトなほうかな、とは思います。